わら天神宮(敷地神社)(ご利益:安産・厄除け・子授け)
祭神は、木花開耶姫命。1397年足利三代将軍義満が西園寺北山殿(金閣寺)を山荘として造営する際に鎮守神として現在地に遷した。
わら天神の通称で知られる敷地神社は安産のご利益で有名な神社。
安産御守としてわらの護符が授与され、わらに節があれば男児、無ければ女児が生まれるといわれている。
沢山のよだれかけに願い事が書かれて奉納されている。
西院春日神社(ご利益:厄除け・病気平癒)
833年に淳和天皇(53代天皇)が建てた淳和院とよばれる離宮に春日大社を勧請した事が西院春日神社の始まりと言われています。
以来、皇室をはじめ藤原氏の守護神として今なお崇敬を集め、特に淳和天皇皇女崇子内親王が疱瘡を患われた折、当社にご祈願をされたところ、神前の石が内親王の身代りとして疱瘡を生じ、内親王がご快癒された事から、病気平癒の守護神として崇められている。
その石は現在も「霊石・疱瘡石」として諸病平癒を祈る多くの人々に信仰されている。
境内にお祀りされている還来(もどろき)神社は旅行安全のご利益があり、又、仁孝天皇御胞衣塚(おえなづか)は安産・幼児守護の信仰があり、共に皇室のご崇敬を受けている。
長岡天満宮(ご利益:合格祈願・厄除開運)
学問の神様で有名な菅原道真(すがわらのみちざね)の祟りを鎮める為に建てられた天満宮の中でもかつて、彼の所領だった場所にあるのが長岡天満宮です。京都屈指の桜の名所の1つとしても有名です。朱印には、天満宮の神使とされている牛の姿も見る事が出来ます
乙訓郡長岡の地は、昔桓武天皇が平城京より平安京に遷都になるまでの皇都長岡京の跡で、当天満宮の祭神菅原道真公が在原業平と共に、詩歌管絃を楽しんだ場所と伝わる。
道真公が太宰府に左遷された時この地に立ち寄り「吾が魂、長くこの地に留まるべし」と名残を惜しんだ縁故によって道真公自作の木像を祀ったのが、当宮の創立の始まり。
皇室の崇敬は厚く、1623年には八条宮の御領地となり、その後、参道をはさんで南北に八条ヶ池が築造された。
中堤の太鼓橋は加賀・前田候の寄進になると伝えられる名橋であり、両側には樹齢150年程のキリシマツツジが植えられており、新緑に映える真紅のキリシマの見事さは、随一のものと称されている。
全国に点在する天満宮は学問の神様で有名な菅原道真が祀られている。道真は朝廷に仕えていた人物で天皇からも重宝されていたが時の左大臣だった藤原時平と対立し、左遷された悲しい運命を持っている。
道真は最期まで京に戻る事が出来ず、不遇の死を遂げた事からその後の公卿の死や、落雷などは道真の祟りだと当時考えられた。
そこで、彼の怒りを鎮める為に全国に天満宮が建てられる事となった。その中で、菅原道真公が亡くなって31年目に当たる934年に菅原家ゆかりの道真公誕生の地に朱雀天皇の勅命により創建された一番最初の天満宮である。
これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつった。これが吉祥院の由来で地名の起源となっている。
境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」をはじめ、少年時代に習字に使用したという「硯の水」や顔を写したと伝える「鑑(かがみ)の井」などがある。
六孫王神社(ご利益:出世開運・家運隆昌)
祭神である源経基は清和源氏の祖であり、江戸時代には源氏ゆかりの神社として武家の信仰が厚かった神社。
六孫王とは、源経基の別名でもあり清和天皇の六番目の子供の貞純親王の息子(六番目の子供の孫)だった事からそう呼ばれていたと言われている。
境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある。
江戸時代五代将軍綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年十月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したので別名“宝永祭”)が行われる。
六孫王の子孫には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。
御香宮神社
862年、境内から清泉が湧き出て、その香気が漂い、その水を飲むとたちまち病が癒えたので、「御香宮」を賜った。
以後、伏見の産土神として人々の信仰を集めたが、度々の兵乱や天災により荒廃した。
1592年~96年、豊臣秀吉は、当社を伏見城内に移し、鬼門の守護神としたが、1605年、徳川家康により旧地である当地に戻され、現在の本殿(重文)が建立された。
表門(重文)は、旧伏見城の大手門と伝えられている。
宝物として、秀吉の寄進した金熨斗付太刀(きんのしつけたち)(重文)を蔵する。
毎年、10月の神幸祭は、伏見祭・花傘祭とも呼ばれ、神輿や花傘、獅子などが出て、盛大に行われる。
新熊野神社(ご利益:健康長寿・お腹の神・病魔退散)
京都三熊野社のひとつ。
平安時代、天皇家の中で流行った熊野詣は紀伊半島南部、和歌山と三重の県境にある熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社という熊野三山の参拝だったが、一度の参拝に莫大な時間やお金がかかる事から京都に勧請され、京都三熊野社が建てられた。
平安後期、後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現したのが始まり。
創建は1160年で、境内の大クスノキは当時熊野より移植した後白河上皇お手植といわれている。
1374年、観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地としても有名。
現本殿は1673年、聖護院道寛親王が再建した市指定重要文化財。
新熊野神社のご神木(クスノキ)を植えると後白河法皇の腹痛の病が治まったという古事も残されている。
豊国神社(ご利益:開運招福・良縁成就)
1598年、天下統一を果たした豊臣秀吉は伏見城においてその波乱に満ちた生涯を終え、遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、中腹に秀吉公を祀る豊国社が創建された。朝廷からは正一位の神階と「豊国大明神」の御神号を賜り、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。
1615年、大坂夏の陣において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀されたが、明治元(1868)年、明治天皇の御沙汰により再興が決定され、明治13年には方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興された。
境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が、また北政所豊臣吉子方を祀る貞照神社や秀吉公の遺品などが残り、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。
境内には、秀吉の旗印である『千成瓢箪』にちなんだひょうたん絵馬があり、朱印にもその姿を見る事が出来る。