京都が好き過ぎて困っているブログ

700ヶ所以上の神社仏閣を巡り、京都検定2級を取得した運営者がガイドブックに載っていないような意外な京都の魅力や素顔を紹介します。

松花堂庭園・美術館 (2014/10/12)


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今では、弁当の代名詞といえるほど知られている「松花堂弁当」。

その名前の由来は、石清水八幡宮にあった瀧本坊の住職を務めた昭乗が好んだ四つ切り箱が器の基になっている。

昭乗が、農家の種入れとして使われていた、箱の内側を十字に仕切った器をヒントに、茶会で使用する煙草盆や絵の具箱として使用した。

大正時代以降、昭乗の菩提寺である泰勝寺(京都府八幡市)では、同様の器が法要の膳の器として使われている。

昭和の初め、日本料理「吉兆」の創始者が松花堂の地を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切り箱」を見そめ、器の寸法をやや縮め、縁を高くして、料理が、おいしそうに、美しく盛りつけできるように工夫を重ね、蓋をかぶせて、茶会の点心等にだされた。

こうして作られた弁当は、四つ切り箱を好んだ昭乗に敬意をはらって「松花堂弁当」と名付けられ、広まっていった。

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残念ながら、ランチのラストオーダーは終わっていて、食べれなかった…

庭園

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入口には吉井勇の石碑

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竹は中の節が取られていて筒状になっていて耳を近づけると水琴窟の音が聞こえる。

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手入れの行き届いた素晴らしい庭園

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松花堂

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松花堂昭乗は江戸時代寛永年間に各方面に活躍した多才な文化人だった。

以下石清水八幡宮のウェブサイトで松花堂昭乗を紹介している文章。

高僧、書家、画家、茶人・・・、松花堂昭乗石清水八幡宮の歴史、興隆を語るうえでなくてはならない人であることはいうまでもありません。

歴史を紐解くと、昭乗の存在が如何に当宮の歴史に影響を与えていたかがうかがえます。

昭乗は、俗姓・中沼、幼名を辰之助といい、天正12(1584)年に奈良または堺に生まれ、少年のころ近衛信尹に仕え、17歳のときに石清水八幡宮社士松田秀知の猶子として男山に登り出家、初め鐘楼坊、のち瀧本坊に住まいして、師・実乗のもとで修業に励み、やがて両部灌頂を受け阿闍梨に昇り、44歳で瀧本坊住職となりましたが、54歳のときに住職を甥の乗淳に譲り、自らは泉坊境内に建てた放丈「松花堂」に隠棲、寛永16(1639)年、享年56で示寂しました。

お墓は、八幡平谷の泰勝寺にあります。

「式部卿」「惺々翁」「空識」「南山隠士」など多くの号をもつ昭乗は、真言密教を究めた高僧であると同時に絵画、書道、作庭、茶道、和歌など多方面に才能を発揮した当代一流の文化人でありました。

とくに書家としては、近衛信尹本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」に数えられ、「松花堂流」の祖として名高く、親交のあった人物としては、近衛信尋小堀遠州林羅山、木下長嘯子、石川丈山、佐川田昌俊、江月、沢庵らの名が挙げられます。

平成23年11月の瀧本坊遺跡発掘調査で発見された茶室は、崖にせり出して造られた懸造り(かけづくり)の「空中茶室」であったことが判明し、制作に携わったといわれる小堀遠州と昭乗の粋なアイデアがつまった茶室であったといえます。

また、四角いお弁当箱の中が四つに仕切られ、美しく盛り付けられた懐石の料理「松花堂弁当」は松花堂昭乗が愛用した道具箱(絵具箱)をヒントに吉兆の店主が考案したのが始まりといわれており、この名前が付けられました。