山崎聖天 (観音寺) (2014/10/11)
JR山崎駅側の踏切を渡ると正面は宝積寺に向かう坂道。天王山山頂への登山口がある。
そこを横切り線路沿いを歩くと左側に山崎聖天入口が見えてくる。
手前にはお稲荷さん。
ここから急な115段の階段を上る。
登り切って振り返る。
目の前は境内
観音寺は通称、山崎聖天(やまざきしょうてん)と言う古寺。
山号は妙音山といい、地中から現れた薬師如来の石像に「妙音山寛平法皇剏建地(そうけんち)」と彫ってあったことに由来する。
観音寺は、平安時代の昌泰2年(899)に宇多法皇が御願寺として創建されと伝えられる。
その後、衰退し、江戸時代初期に摂津箕面勝尾寺の僧・木食上人以空が、この地にあった聖徳太子の作と伝えられる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、中興開山する。
それ以後、歓喜天(かんぎてん)を祀り、霊元、東山、中御門天皇の厚い帰依を受け、商売繁盛家運隆昌を願う住友家、鴻池家、三井家などの信仰や、京都、堺など商人の参詣を得て大いに発展する。
このような経緯で、本尊の十一面千手観音菩薩よりも 歓喜天への信仰によって、「山崎の聖天さん」として知られるようになり、江戸時代の観音寺は大いに賑わうようになった。
山に向かって本堂の左側に、その歓喜天が祀られています。
江戸幕府末の禁門の変の際は、元治元年(1864)、長州の尊皇攘夷派の部隊が山崎の地に陣を取ったことにより、戦火に巻き込まれることになる。
山崎は幕府軍と長州派の戦いにより、天王山一帯は壊滅的な被害を受ける。
観音寺もこの時の火によって、事前に避難させた本尊の十一面千手観世音菩薩と歓喜天像以外を残して焼失した。
明治時代に入り観音寺は順次復興され、現在ある建物は西観音寺の本堂や、聖天堂や鐘楼などを移して再建された。