占出山や船鉾と同じく『日本書紀』の神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅出船に由来する。
船鉾が「出陣」を表すのに対し、大船鉾は戦を終えて戻る「凱旋」の場面を表す。
応仁の乱以前から存在する歴史の古い鉾で、後祭りの殿(一番最後)を務めていた。
天命の大火(1788)年に御神体である神功皇后の神面を残して焼失、その後再興されたものの、幕末の蛤御門の変(1864)による火災で鉾本体が焼失し、以降は休み鉾となっていた。
しかし近年お囃子や飾り席が復活し、宵山の際に一般に公開していた。
2011年には唐櫃(からひつ)に御神体を収めて巡行に参加した。
2014年、今年は再建した鉾での巡行を予定している。
御神体の神功皇后が子供を身ごもった状態で戦に臨み、帰還後に無事応仁天皇を生んだ、というゆかりから、大船鉾も安産のご利益があるとされる。
宵山では安産お守りとして腹帯が授与される。
船鉾の神功皇后は鎧姿なのに対し、大船鉾の神功皇后は戦を終えているため鎧を脱いで狩衣姿となっている。
幾たびの火災を免れた神面は、江戸時代以前の作といわれる貴重なもの。
奥には顔を御簾のようなもので覆われた神功皇后が祀られている。
御朱印