京都が好き過ぎて困っているブログ

700ヶ所以上の神社仏閣を巡り、京都検定2級を取得した運営者がガイドブックに載っていないような意外な京都の魅力や素顔を紹介します。

元慶寺 (2014/4/3)

山科駅から徒歩40分ほど。山科駅を背に南に10分ほど進み外環渋谷の交差点を右に曲がり、30分ほど真っ直ぐ進んだ右側にある寺。

イメージ 1


天台宗のお寺には珍しい竜宮造の山門。

イメージ 2

この山門は通常曹洞宗によく見られる。

イメージ 3


イメージ 4


868年、桓武天皇の孫、遍昭僧正の開創になる天台宗の寺院。

花山天皇は当寺で出家、花山法皇と称した。

寺格も高く多くの寺領で栄えたが、応仁の乱で焼失。

現在の建物は安永年間(1772-81)の再建といわれ、花山法皇の宸影を安置。

西国三十三カ所番外札所。

本尊は薬師瑠璃光如来




花山天皇は、藤原兼家と道兼の親子の策略によって出家をさせられてしまう。

兼家は政治の権力を握る為自分の娘の詮子(せんし、あきこ)が産んだ懐仁親王(やすひとしんのう)を早く即位させて、摂政になりたいと考えていた。

(摂政は、天皇が女性の時や天皇が病気の時、天皇が子供の時に、天皇に代わって政治を取り仕切る役職。)

兼家は花山天皇を出家させるという方法を実行に移す。

花山天皇には、身重の女御藤原?子(ふじわらのよしこ)がいたが出産前に死去。

天皇がその事に悲しんでいたところに兼家が蔵人であった息子の道兼を使って出家するように促した。
(蔵人は、天皇からの命令を伝達する秘書のような役職。)

天皇は信頼していた道兼に「道兼も共に出家するというのなら」という約束で出家を決意。

その後、懐仁親王は即位して一条天皇は、第66代天皇となりその外祖父であった兼家が待望の摂政となる。

この一連の事件を寛和の変(かんなのへん)と言う。

騙された花山天皇は、その後は厳しい修行をし、廃れていた西国霊場巡礼を復活させた事で西国霊場中興の祖といわれ、元慶寺は西国三十三ヶ所霊場の番外札所となっている。

寺には花山法皇の宸影を安置している。

花山天皇を連れ出した道兼は、兄の道隆が亡くなった際に関白になったが、関白になって数日後に病死したため、道兼は「七日関白」と呼ばれた。