都七福神めぐり 萬福寺(2017/1/8)
京都市内から電車で20分ほど、黄檗駅下車、徒歩5分強にある中国風の禅寺。
開祖は日本にインゲン豆をもたらしたことでも有名な中国の僧、隠元隆隆?湊(いんげんりゅうき)。
布袋様は中国の僧侶が元になっていると伝えられている。
吉凶の判断にすぐれ、未来を予知する才に長けていた。
恰幅の良い大きなおなかが印象的。
袋を担ぎ、物乞いをし、貰ったものを袋の中に詰め込んでいた事から「布袋」と呼ばれるようになった。
萬福寺は1659年、隠元禅師が徳川四代将軍家綱よりこの地を賜わり創建された。
1661年、新しい寺の建立を始め、もともと中国福建省の黄檗山萬福寺の住持であった隠元禅師が、元を忘れないため黄檗山萬福寺と命名した。
萬福寺には、全日本煎茶連盟本部が置かれていて、また普茶料理も振舞われることでめ有名。
都七福神めぐり 松ヶ崎大黒天(2017/1/8)
「大黒天」を祀る松ヶ崎大黒天(妙円寺)
打ち出の小槌を持った大黒天は、かつて軍神でありもとはインドの神で、黒い体に怒りの表情をした「破壊の神」だったが、鎌倉時代に日本の神である大国主命(おおくにぬしのみこと)と同一視され、俵に乗り、打ち出の小槌を持った今の姿になった。五穀豊穣・飲食の神とされ飲食業を営む方などにも信仰されている。
松崎山大黒天(妙円寺)は、日英上人を開基とする日蓮宗の寺。 本尊の大黒天は最澄の作、日蓮聖人が開眼したものといわれている。当寺は京都の表鬼門に位置するところから、古来、福運を授ける神と信ぜられ、昭和44年の火災にも無事で「火中の大黒さま」と呼ばれている。 背後の山では毎年8月16日五山の送り火の行事として「妙法」二字の送り火を点ずる。
都七福神めぐり 赤山禅院(2017/1/8)
「福禄寿神」を祀る赤山禅院。
もとは中国の神を人格化したもの。延寿や健康のご利益をもたらす、長寿の神様と言われている。
888年、天台座主安慧(あんね)が、師の円仁の遺命によって創建した天台宗の寺院。本尊の赤山明神は、円仁が中国の赤山にある泰山府君(たいざんふくん)、陰明道祖神を勧請したもので、天台の守護神。
後水尾上皇の修学院離宮御幸の時には、上皇より社殿の修築及び、赤山大明神の勅額を賜った。
京都の東北に位置し、表鬼門にあたることから、当院は、方除けの神として崇敬を集めている。表鬼門を守護する印として、赤山禅院の拝殿の屋根には、鬼門除けの猿が置かれている。猿(申)は、鬼門とは反対の方角である西南西を指すことから、邪気を払う力があるとされている。金網の中にいるのは、かつて夜になると暴れだし、いたずらを繰り返したため閉じこめたと伝わっている。京都御所の東北の角にある猿ヶ辻や、幸神社(さいのかみのやしろ)にも鬼門除けの猿が置かれている。
都七福神めぐり 革堂(2017/1/8)
「寿老神」を祀る革堂(行願寺)
福禄寿神と同様、中国の仙人がもとのお姿。寿老神は鹿を連れた姿として描かれる事もある。鹿の肉を食べた人間は長生きすると言われ、人の寿命を支配する神とも伝えられている。
行願寺は、天台宗の寺院で、西国三十三ケ所観音霊場の第十九番の札所。 1004年、行円によって、一条小川に創建され、行円が常に皮の衣をまとい、人々から皮聖とも呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになったといわれている。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、1708年の宝永の大火の後、この地に移された。
現在の本堂は、1815年に建てられたもので、堂内には行円作と伝える本尊千手観音像を安置している。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老人神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがある。
都七福神めぐり 恵美須神社(2017/1/8)
「ゑびす神」を祀る恵美須神社
漁業や交通安全、商売繁盛の守護神であるゑびす様。右手に釣竿、左手に鯛を抱えた姿はまさに海から来た神の姿。日本は海に囲まれているので神は海から来るものとも伝えられてきた。
七福神唯一の日本古来の神。
恵比須神社は、事代主神(ことしろぬしのかみ)、少彦名神、大国主神を祀る。 1191年、栄西禅師が宋(中国)から帰途、舟が暴風雨に遭い遭難しそうになったが、海上に恵美須神が現れ、その加護により難を免れたといわれ、1202年、建仁寺創建に当たり、境内に恵美須神を祀り、建仁寺の鎮守社としたのが当社の起こりと伝えられる。
応仁の乱後、建仁寺再建の際も同所に再建され、今もなお当地の産土神としておおくの人々の崇敬を受けている。 境内の岩本社には、平安時代の歌人在原業平を祀っている。財布塚・名刺塚は、古くなった財布や名刺の供養のため築かれたもの。 毎年1月10日を中心として前後五日間行われる「十日ゑびす」の大祭には、全国各地から商売繁昌・家運隆昌・交通安全を祈願するため多くの人が参詣する。
十六社御朱印めぐり 粟田神社(2017/1/7)
粟田神社 (ご利益:旅立守護・厄除)
粟田とは地名で、京の七口のひとつ、粟田口の事を指す。粟田口は東海道や、近江、大津から京都に入る入り口で、京都よりも東の国江戸などからやって来た人々は粟田口に来ると「無事に京都に着いたと安堵したとか。逆に、京都を出る人にとっても旅立ちの場所でもあった。その際に粟田神社に立ち寄り安全を祈願し参拝していたと伝えられている。
粟田神社は、大己貴命の疫病除け御神託による創建で、‘牛頭天王’を祭った粟田口の総社だった。のち天台宗青蓮院門跡の鎮守社になる。社殿は平安初期にできたが江戸中期から末期に本殿、拝殿とも再建。
スサノオノミコトを祭り、厄除け、旅立ち守護の神。
祭礼である「粟田祭」は10月体育の日前々日・前日・体育の日・15日。体育の日前日は祭の呼びもの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が大燈呂とともに知恩院前の「瓜生石」前で「れいけん」の祭りを行った後に夜渡りする。
体育の日は神幸祭で剣鉾巡行と神輿渡御。15日は例大祭。この剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。
近くに平安神宮の赤い大鳥居が見える。
十六社御朱印めぐり 若王子神社(2017/1/7)
熊野若王子神社(ご利益:学業成就・商売繁盛)
室町8代将軍足利義政がこの地で花見を開いた事でも知られている。
1160年、後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請した正東山若王子の鎮守であったが、明治初年の神仏分離によって当社のみが今日に残った。
御香宮神社(ご利益:安産・病気平癒)
お腹に子供を宿しながらも三韓征伐を行った武神である神功皇后が主祭神という事から安産や子育てのご利益がある。
863年、境内に大変香の好い水が湧き出て、この水を飲むと病がたちまち治ったという逸話から清和天皇より「御香宮」の名を賜った。現在でも伏見の御香水は名水百選のひとつに認定されている。
1590年、天下統一した豊臣秀吉は当社に願文と太刀を奉納、伏見築城に際し、鬼門除けの神として城内に勧請した。
1605年、徳川家康は当社を元の地に戻し本殿を造営した。また表門は水戸の徳川頼房、拝殿は紀伊の徳川頼宣の寄進によるもの。
1868年の伏見鳥羽の戦では、官軍の陣営が置かれたが、幸いにして戦火をまぬがれた。
十六社御朱印めぐり 熊野神社 (2017/1/7)
熊野神社(ご利益:縁結び・安産・病気平癒)
朱印のカラスは熊野社の神使である八咫烏(やたがらす)。三本足の特徴的なルックスは日本サッカー協会のシンボルマークにも使われている事で有名。
811年、修験道の始祖役小角(えんのおづぬ)の十世僧日圓が、国家護持のために紀州熊野大神を勧請したのに始まる。
1090年、白河上皇の勅願により創立された聖護院は、当社を守護神として祟められ別当職を置いて管理した。平安末期後白河法皇は度々熊野詣を行われたが、当社にも厚く尊信をよせられたという。
応仁の乱により社殿は焼失したが、1666年、聖護院宮道寛法親王が再興した。現在の本殿は、1835年に大修造が行われ、下鴨神社から移築された代表的な流れ造りである。
御祭神は、我国最初の夫婦神である伊弉諾尊・伊弉冉尊であり、縁結び・安産のご利益がある。又、病気平癒のご祈願も多い。
古くから節分の日には「火の用心のお札」を受ける風習があり、多くの参拝者で賑わう。
十六社御朱印めぐり 上御霊神社(2017/1/7)
御霊神社(ご利益:厄除・心しずめ・学業成就)
創建は794年。桓武天皇が平安京の守り神として弟である早良親王の神霊を祀ったのが始まり。
当時起こった天変地異は、早良親王の祟りだと考えられていて、この事より心を静めるご利益があると伝えられている。また、1467年『応仁の乱』の勃発の地でもあります
794年桓武天皇の弟、崇道天皇(早良親王)を祀ったのが始まり。その後仁明、清和天皇時代を経て7柱が合祀され、863年悪疫退散の御霊会が勅命で催された。
国家、皇居、都民守護の社として朝野の崇敬を集めた。境内の‘御霊の森’は応仁の乱の発端となった地。1467年 正月17日深夜、畠山政長は自邸を焼いて兵約二千を率いてここに布陣した。
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